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    合従連衡

      蘇秦は張儀とともに戦國(guó)時(shí)代中葉の中國(guó)全土を三寸の舌と二本の足をもってかきまわした大策士であり大山師である。三寸の舌とはけたはずれの能弁、二本の足とは相手どり、歩きまわった國(guó)が當(dāng)時(shí)のいわゆる七國(guó)(燕?斉?趙?韓?魏?楚?秦)にわたったことを意味する。

      この二人は鬼谷先生(百般の知識(shí)に通じ、占卜をもやり、鬼谷子なる著を殘している謎の人物)を師とした同門である。

      鬼谷先生の住まっている処は、洛陽(yáng)から十五里ほど東南の鬼谷という山の中であった。蘇秦はここで長(zhǎng)い修業(yè)を積んで山を下った。ここで何を?qū)Wび、ここを下ってどこへ行き、何をしたか、後世の私たちには皆目わからないのだが、とにかく蘇秦はあちらこちらと放浪したあげく、或る日ひょっこりと洛陽(yáng)にある自分の家へもどって來(lái)た。歴史書はこれから後の蘇秦の行動(dòng)については詳しい。

      貧相ななりをして戸口に立った蘇秦に対し、妻は織っていた機(jī)の臺(tái)から下りなかったし、嫂は食事も出してくれなかった。そして、売れもしないおしゃべりなどを売りあるくんだから苦しむのも當(dāng)たり前だといって相手にしなかった。

      家にとどまること約一年、蘇秦はふたたび家をとび出し、周の王を訪れたが相手にされなかった。次に秦の國(guó)をたずねたがやはり相手にされなかった。趙の國(guó)へ行ったがそこでも無(wú)駄足、そこで遠(yuǎn)く最北端の燕の國(guó)へ出かけ、弁舌をふるった。ここでは彼の弁舌が功を奏し、車馬金帛の贈(zèng)り物を受けた。蘇秦が燕王に進(jìn)言した政策を『合従」という。

      「従に合わさる」という意味で、燕と趙と斉と魏と韓と楚が縦(従)に、つまり南北に手をにぎり合って強(qiáng)國(guó)の秦にあたろうというのである。これらの六國(guó)は當(dāng)時(shí)急激に強(qiáng)大となりつつあった秦の國(guó)を極度に恐れていた。蘇秦はこの恐怖心をうまくあやつり、もしこの際、六國(guó)が手をにぎり合わず、孤立していれば、それぞれ秦に打ちほろぼされてしまう。ぜひ合従して共同防衛(wèi)しなければならぬ。そのまとめ役を自分がしようと申し出たわけだ。

      燕王から合従の成就をまかされると、次に趙を訪ね、今度は大成功、車馬百乗に白璧や黃金や錦刺繍を合従の準(zhǔn)備費(fèi)用として與えられた。

      韓、魏、斉、楚の順で廻り歩いた蘇秦は、みごと王たちを口説きおとし、六國(guó)の宰相となりおおせ、合従の盟主としてまつり上げられるに至った。

      南の楚から趙へ帰る途次、蘇秦は洛陽(yáng)を通った。その時(shí)の彼の行列、車馬輜重は優(yōu)に王侯に匹敵し、洛陽(yáng)を都とする周王も使いに出迎えさせる豪勢(shì)さ。兄弟も妻と嫂も、今は蘇秦をまともに見ることができない。

      食事の給仕をするにも顔を俯したまま。蘇秦は嫂にきいた。

      「以前、私がここへ戻って來(lái)た時(shí)には、食事も出してくださらなかったのに、ずいぶんな変りようですが、これは一體どういう理由ですか?」と、嫂は頭を大地にすりつけて、

      「あなたの位がこんなに高くおなりになり、あなたがこんなにお金持ちになられたのを見れば、誰(shuí)だった自然にこうなりますわ。」

      蘇秦は位と金がこうも人間を変らせ、かつまた、自分にもし僅かの田畑でもあったならば、一生それで満足し、今日の富貴をかちとり得なかったであろう事を慨嘆して、親族朋友に千金を散じ與えたのであった。

      蘇秦が趙に滯在中、張儀がだしぬけに訪ねて來(lái)た。兄弟弟子である蘇秦が宰相になっているときき、取り立てて貰おうと思ったからである。

      蘇秦はこの張儀に六日目にやっと面會(huì)を許したばかりでなく、自分は堂上に、張儀は堂下にすわらせ、下僕に與えるにも等しい食事をあてがって追いかえした。張儀は歯がみして口惜しがった。そして今に見ていれとばかり、その足で秦に向かった。ところがその旅につきまとい、絶えず張儀の世話を見た人物がいる。旅宿の費(fèi)用はもちろん、秦に仕官するためには衣服も必要であろう、車馬も必要であろう、と世話をして、秦の國(guó)へおくりとどけてくれた。當(dāng)時(shí)はこれは大物になりそうだと見込んだ浪人に親切をつくし、將來(lái)の役に立てようとする商人が珍しくなかったから、多分そのたぐいであろうと張儀は思っていた。

      その商人は張儀が秦に入京し、客卿に取り上げられるのを見とどけると、張儀に別れの挨拶に來(lái)た。張儀は自分からなんの代償も要求しない商人を不思議に思って、わけをたずねると、商人は、

      「これはすべて蘇秦様のおはからいです。あなたを発憤させて秦に向かわせ、無(wú)事、秦に仕官できなさるようにと考えられたのです。秦は蘇秦様の合従の策には邪魔者です。その邪魔者の手足を封じる役目をあなたにやっていただきたいのです。」すると張儀は。

      「自分は蘇秦殿の術(shù)中にありながら、それを悟りえなかった大変なうつけ者だ。このうつけ者がどうして蘇秦様の邪魔などできましょう。蘇秦様に告げたまえ、蘇秦様が存命中はこの張儀、どうして口はばったいことができましょう、何ができましょう、とな。」

      さて、張儀は秦にとどまって才腕を認(rèn)められ、客卿から宰相へと出世する。彼は「連衡」の策を取った。つまり、六國(guó)のどこかと同盟を結(jié)んで合従を破り、六國(guó)をばらばらに孤立させ、孤立した國(guó)々を各個(gè)に撃破ないし威圧して、秦に対し臣下の禮を取らせ、やがて併呑するという策である。秦とどこかとの同盟を結(jié)ぶのは、六國(guó)とは「合従」に対して「衡(東西)に連なる」かたちとなるので、「合従」に対して「連衡」というのである。張儀は後に蘇秦の成就した合従を完全に崩しさった。

    網(wǎng)友關(guān)注